東洋のマチュピチュ 別子銅山の東平(とうなる)がすごかった!

こんにちは、遺跡ハンターゆーすけ(@yusuke_plmrstn)です。

突然ですが、みなさんはマチュピチュという言葉を聞いたことがありますか?

ペルーのアンデス山麓に存在する、雰囲気たっぷりの15世紀インカ帝国の遺跡です。

ところが!

日本にも「東洋のマチュピチュ」と呼ばれる遺跡が存在しています!

今回は日本のマチュピチュの1つ、愛媛県は別子銅山(べっしどうざん)にある東平(とうなる)の遺跡をご紹介します。

別子銅山とは何ぞや?

ではまず愛媛の別子銅山のご紹介です。

別子銅山は愛媛県の新居浜市にあった銅山のことです。

1690年に発見され、その後約180年間にわたり開発されました。

住友家が一貫して経営し、現在の巨大財閥の礎を築いたところとして知られています。

今は閉山していますが、当時の様子を残すための資料館がマイントピア別子という施設にたくさん残されています。

マイントピア別子公式サイト

東平の遺跡は東洋のマチュピチュと呼ばれている

当時の別子銅山では鉱夫やその家族など、ピーク時は1万人以上が生活し、1つの町を形成していました。

学校、病院、百貨店、旅館などが立ち並び、生活する上で不便はなかったそうな。

別子銅山の閉山とともに採掘施設や生活施設のほとんどは取り壊されてしまいましたが、歴史を語る資料として一部が保存され、現在では東洋のマチュピチュと呼ばれるようになりました。

愛媛県の県庁所在地は松山ですが、当時の松山の人口が1万5千人くらい。

別子銅山の人口が約1万人だったので、かなりの大きさの町だったことが想像できます。 

東洋のマチュピチュ東平への行き方

さて東洋のマチュピチュですが、マイントピア別子からさらに山奥に進んだ東平(とうなる)という地域に存在しています。

マイントピア別子から専用バスが出ていて、それを利用することもできます。

△マイントピア観光バス/出発時間 11:00と13:00の1日2本/所要時間2時間/実施期間4月〜11月/中学生以上1,200円/3歳以上〜小学生600円/3歳未満は無料 

自家用車でも行くことができるので、お好みでどうぞ。

どちらにしても車がないとアクセスできない場所です。

ただしここで2点注意があります。

1つ目
東平への山道は道幅が狭く、車の離合ができない場所があります

2つ目
冬季(12月〜2月)は東平への道の凍結のため、東洋のマチュピチュにはアクセスできません

東平にいくためには細い山道を通っていきます。

道はある程度整備されていますが、一部では車のすれちがいが出来ないくらいに狭い道路もあります。

その場合はどちらかが道を戻り、道をゆずるしかありません。

東平への車の道は狭かった

それではさっそく東平にいってみましょう!

マイントピア別子を通り過ぎ、どんどん山を登っていきます。

そして左手に東平への看板があらわれます。

この先が問題のグネグネ山道です。

なんと5km以上も続くというから驚きです。 

訪問した日は平日だったため、運良くすれ違う車はありませんでした。途中の道は広い場所もあれば車1台しか通れない細い場所もあります。

でも少し戻れば離合できるように整備されているので、想像していたよりかは登りやすかった印象です。

途中の山道を動画におさめましたのでどうぞ。

20分ほどかけて登り切ると駐車場があります。

ここに車を停め、あとは徒歩で遺跡散策です!

この日は平日。駐車場にはほとんど車はありませんでした。

休日になると観光客でけっこう賑わうようですが、人が少ないほうがゆっくり見学できますよね。

眼前に広がる東洋のマチュピチュ

東平に残っている遺跡はざっくりと次のようなものがあります。

貯鉱庫跡

重厚な花崗岩造りの貯鉱庫で、運ばれてきた鉱石と、新太平坑(しんたいへいこう)と東平を結ぶ太東索道から運ばれてきた鉱石を一時的に貯蔵するものでした。

索道停車場跡

鉱山施設が集中していた東平集落の下部にあり、東平と端出場(黒石)を結ぶ主要輸送機関でした。

鉱石運搬はもちろん、日用生活品や郵便物、新聞もこの索道で輸送されていました。

鉱石は、隣接する貯鉱庫から搬器に移され、端出場へと運ばれていました。

旧インクライン

端出場(はでば)から索道で東平へと運ばれてきた物資は、インクライン(傾斜面を走る軌道)を通じて荷揚げされていました。

現在、インクラインはマイントピア別子東平ゾーンの園内遊歩道の一部、220段の長大階段に生まれ代わっています。

旧火薬庫口

この火薬庫は、明治45年(1912)に探鉱を目的に開削された坑道を活用したもので、坑道掘削用のダイナマイトなどを保管していました。

旧東平第三変電所

明治37年(1904(に完成した赤レンガ造りの第三変電所は、落し水力発電所から送電されてきた電力の電圧調整と明治38年(1905)に第三通洞に電車が導入されたことに伴い、その電車用に直流変換するために設置されたものとされています。

現在、かつて採鉱本部が嶺北側に初めて置かれた第三の地形のやや上段に、赤レンガ造りの旧第三変電所の建屋が残されていますが、建屋の中は、変電所であった面影はほとんどありません。

貯鉱庫跡と索道停車場跡

駐車場からインクライン跡を下っていくと貯鉱庫跡と索道停車場跡が広がっています。

まるで異世界に迷い込んだかのような不思議な景色が広がります。

日本にこんな幻想的な遺跡が残っていたことに感動を覚えます。

レンガ造りの遺跡がどどーんとあらわれました。

数百年前ではここが実際に使われて採掘に使われていたと考えると感慨深いものがありますね。

近くでみると石の古さを感じることができます。

見る角度を変えてみると姿が変わっておもしろいですね。

さすが東洋のマチュピチュと呼ばれるだけあり、迫力が違います。

いつまでも見学していられる魅力がある遺跡です。

風化していつかは崩れてしまうものかもしれませんが、当時の記録を残す貴重な資料として長く大切にしたいものですね。

第三変電所へ徒歩移動

次は徒歩で移動して第三変電所に向かいます。

途中は細い道を歩きますが、しっかり舗装されているので安心して通ることができます。

とはいうものの、さすがに夜にここは通りたくないですね。

途中ではキレイな苔があり、癒やされます。

15分ほど歩くと広場があります。背の高い木に囲まれ、今までの遺跡の雰囲気から一変しました。

そして視点を上にやると、そこには超絶素敵な雰囲気の建物があります。

そう、それが第三変電所です。

遺跡ファンならずとも感動

変電所の中は自由に立ち入ることができます。管理人などもいないので気軽に散策できますね。

水力発電所で発電された電気を直流に変換するために使われていた施設ですが、現在では変電所としての面影は残っていません。

中に入ってみるとそこにはロマンが広がっていました。

僕は遺跡マニアではありませんが、この雰囲気にはテンションが上がりました。

遺跡というか廃墟というほうが正しいかもしれません。

変電施設は残っていませんが、生活するために使われていたであろう部屋、物置、階段、お手洗いなどが残っています。

いたるところにゴミなどが捨てられていますが、それがまた古っぽさを出していて雰囲気にピッタリです。

電灯などの設備がないため、暗くならないうちに見学終えて帰るようにしましょうね。

まとめ

東洋のマチュピチュ、すごくよかったです。

マイントピア別子はCMでやっていたので存在はしっていましたが、東洋のマチュピチュが地元にあるのは知りませんでした。

昔の生活を想像しながら歩くととてもおもしろい場所だと思います。

夏でも気温が低くてヒンヤリした場所で、逆に冬は寒いくらいです。。

かなり歩きますので、しっかりと動ける靴と服装で行きましょう!

ゆーすけ(守屋祐輔)

ゆーすけ(守屋祐輔)

複業サラリーマン

会社員×ブログ×デザイン×講師×投資の5つの働き方・稼ぎ方を実践する複業サラリーマンブロガー ▼複業で立ち上げたご署名ネットではこれまで1,600人以上、11,000点以上の作成実績。TV, ラジオ, 雑誌など出てます。▼経験から学んだノウハウや考え方、自分の人となりがわかる記事をお届けします

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4 件のコメント

  1. 東平遺跡、いいねえ! 知りませんでした。写真で見ると人の手が加わっていない所の方が魅力的かな。
    いつか、行ってみたいです。

  2. 東平遺跡、いいねえ! 知りませんでした。特に写真は人の手が加わっていない所の方が魅力的に思えました。
    いつか、行ってみたいです。

  3. ぜひぜひ行ってみて下さい。冬は入れなくなってしまうので、ぜひその前に!